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松井田城址保存会のホームページ

    


 松井田城の歴史   The History of Matsuid Castle



松井田城は、支配者が五回代わっています。現在の松井田城址は、北条方の大道寺駿河守政繁が増改築し、天正18年(1590年)に豊臣方の北国勢に攻められて落城した時の遺構です。


【鎌倉時代】青竜山 霞ヶ城(松枝城) 弘長2年(1262年)


 北条時頼が諸国巡業の帰路、碓氷川の右岸「河原柄の里 烏泊村」(現在の烏留地区)に宿を求めたその夜明け方に、北方の山並みを眺め、「竜が雲に浮かぶが如し」と霊気を感じ、家臣青砥左衛門藤綱に築城を命じ、弘長二壬辰年(1262年)に築城させ、青竜山松ヶ枝城と名付け、水の手が欲しいので信濃の国諏訪大明神より大荒目尊を勧請し、碓村神社を創建したといわれています。(青竜城記)

【戦国時代】安中氏支配(長享元年~永禄9年 1487~1566年)


 長享元年(1487年)越後国新発田から安中出羽守忠親が松井田小屋城に入りました。嫡子伊賀守忠清は原市に榎下城を築いて居住しました。忠清の子越前守忠政は永禄二年(1559年)野尻に城(安中城)を築き、嫡子の左近太夫忠成をここに住まわせました。忠政は忠親の跡を継いで松井田小屋城に入りました。
安中氏は、箕輪城主長野氏を盟主としてましたので、小屋城は信州方面への守りを主にして改築し武田信玄の侵攻に備えました。

当時の城下町は高梨子で、現在も高梨子には立町、横町、水組、百人町、与力町などの地名が残っています。 城は高梨子と新堀の境の丘陵を数郭に分けたもので現在安中曲輪と呼ばれている辺りです。
永禄9年(1566年)武田父子の率いる大軍に攻め立てられ、忠政は子の忠成の命と引き替えに切腹したと言われています。これにより安中氏による松井田城支配は終わりをつげました。
この戦いで安中勢は6~700人であったろうと言われています。

松井田西城の記述が上野志に出てくるのは、安中氏の時代です。松井田西城は現在の金剛寺の辺りにあったと言われていますが大道寺氏の時代には記述が無く、松井田城の縄張り図にも入っていません。


【戦国時代】武田氏支配(永禄9年~天正10年 1566~1582年)


 安中氏を攻め落とした武田勢は、箕輪の長野氏を攻め滅ぼし西上州を手に入れました。松井田城には、小宮山丹後守をおいて支配させてましたが、箕輪城との路線の確保のためのつなぎの城としての役目しかなかったために、さほど重要視されずにいたので、城は拡張もされず、小修復が繰り返されていたのみと推測されています。
天正10年(1582年)武田氏は天目山で敗れ滅亡しました。


【戦国時代】織田氏支配(天正10年 3月~6月 1582年)


 武田氏に代わって織田氏の勢力下に入り、滝川一益が厩橋城に入るや、その寵臣津田小平次政秀を松井田城において信濃の国との連絡にあたらせたが、天正10年(1582年)6月に本能寺で信長は討たれ、滝川一益、津田小平次ともども神流川で北条勢と戦った後に上州から引き上げてしまいました。


【戦国時代】大道寺氏(北条氏)支配(天正10年~18年 1582~1590年)


 引き上げて行く織田軍を追って北条氏の家臣大道寺駿河守政繁が松井田城に入るや、天正11年より北条氏の西辺の守りの地として大きな築城に取りかかりました。本丸、二の丸を築き、さらに二の丸の西方に防御戦をひろげ、西の主尾根に五~七条の堀切があり、如何に西方からの攻撃に備えたかが判ります。
本丸には東北隅に虚空蔵を祀る小社があり、1月13日が祭日になっています。二の丸は本丸の西側にあり、東西に長い。(本丸と二の丸は逆になっているという意見もあります。当HPでは、山崎一氏、齋藤慎一氏の縄張り図に基づいてます。)
東北にのびる尾根にもいたるところに堀切を作って要害堅固の城としたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に東山道軍の前田利家・上杉景勝さらには真田昌幸らの信濃軍も合わせ総勢3万5千の大軍の猛攻に1ヶ月以上持ちこたえたが4月20日に城代大道寺政繁は降伏し、松井田城は開城(落城)して廃城となりました。

天正18年の落城以来、松井田城は夏草の茂にまかせ、城下町であった高梨子もやがて中仙道が松井田村を通ることにより繁栄は失われました。しかし、草木の茂るままになっていたため、城跡は大道寺氏築城のまま残り、群馬県下で原形を残す最大の山城として最も貴重な存在となっています。



絵図は雑誌歴史街道2011年6月号より引用




松井田城の配置のイメージ図(「上州の城」下巻より引用) 松井田城址イメージ絵図
(注)建物の外観イメージは、中世の山城なので図とは異なります。
 中世の山城には大規模な石垣や白壁の建物はありません.
本丸と二の丸の位置関係は山崎一氏の縄張り図と逆になってます。





日本史学者齋藤慎一先生の縄張り図を元に安中市教育委員会が作成した案内図 松井田城址案内図


 
上図を拡大して判読できます。
■案内図のダウンロードはこちら
  
  


山崎一氏の縄張り図(「碓氷の城」1978年刊から引用)(オンマウスで拡大します) 縄張り図


 
齋藤慎一氏の縄張り図(オンマウスで拡大します) 縄張り図山崎一氏の縄張り図は1970年代に刊行されたもの。齋藤慎一氏の縄張り図は
1986年頃に松井田町教育委員会からの依頼で長期間現地調査して作成。
   


googlemapの航空写真と山崎一氏の縄張り図を重ねるとこんな感じになります。




空から見た松井田城址

松井田城址遠景
空から眺めた松井田城址   松井田城は中央部の尾根の
東西と奥(北側)へ続く三筋の尾根に築城されていた。


松井田城址拡大
松井田城址の拡大  正面の尾根と奥に見える三本の枝尾根が城址


松井田城址西側
松井田城址を西側上空から見る     左側(北側)が高梨子地区
右側(南側)が松井田地区、手前の山の下を貫くのは天神山トンネル


松井田城高梨子
北側に延びる3本の尾根と高梨子集落  手前は天神山トンネル


松井田城址東側
松井田城址を東側上空から見る   城址の近くまで開発が進み
ゴルフ場が出来ている。左側はゴルフ場高梨子倶楽部 


松井田城址秋
紅葉の時期の松井田城址  中央部のトンネルが天神山トンネル
山の中腹の道路は1970年頃に出来た国道18号松井田バイパス  






参考文献;
書籍「松井田町の文化財」(松井田町教育委員会)昭和49年刊
書籍「松井田町の文化財」(松井田町教育委員会)昭和61年刊(改訂版)
冊子「松井田城物語」 金井千廣著(ふるさと学習の会資料)平成29年松井田城址保存会にて復刻
資料「松井田城を歩く」安中市学習の森ふるさと学習館企画
書籍「碓氷の城」山崎一(声の友社)
書籍「松井田城落城記」小林文男編(声の友社)
書籍「上州の城(下)」山崎一(上毛新聞社)昭和50年刊
書籍「碓氷郡誌」碓氷教育会偏(碓氷郡誌刊行会)昭和48年刊   
書籍「松井田町誌」(松井田町誌編纂委員会)昭和60年刊
書籍「九十九史考」小板橋良平(あかぎ出版)平成7年増補版    
雑誌「歴史街道」2011年6月号    

 

     

 

     

 


   
 
  
  
 
 
 

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